生を明らめ死を明きらむる

 週末は、祖母の一周忌でした。
 曹洞宗のお寺には、先祖代々(どこまでかはわからないですが)のお骨が眠ります。そして住職の奥様は、なんと私の大学の友人です。人のつながりとの広がりと深さを感じます。寒い境内で住職が読み上げてくれたのは、「修証義」の第一章でした。目をつむって何も考えない時間にしようか?と思ったのですが、「修証義」のテキストも配られたものですから、ちゃんと読んでみよう!と思いました。よく読めば、そこには「どうやって生きるか?」仏様の立場からのメッセージの宝庫でした。

 たまには、いっしょにお経を読んでみませんか?

生を明らめ
死を明きらむるは
仏家一大事の因縁なり、

我々が生きているということは、どういうことか、死とはどういうことか、その真実をはっきり見極めるのが
仏教者として最も根本的問題であります。
(ふむふむ。最初に問題提示。)


生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし、

生まれてから死ぬまで、我々は迷い、苦しみのまっただ中に生きているようですが、
その生まれてから、死ぬまでの生きている現実の中にこそ仏(覚ったひと)はいるのですから、
迷い苦しむ生活としての生死はないのです。

(なるほど。結論1「迷い苦しむ生活としての生死はない」すごいなー。)


但(ただ)生死すなわち涅槃と心得て、
生死として厭(いと)うべきもなく、
涅槃として欣(ねご)うべきもなし、

ただこの生まれてきてから死ぬまでの現実そのものが、
不生不滅の涅槃(ねはん)の境地と心得たらいいのであって、
そうなると、
いやがり、きらうべき生死という迷いの生活もなく、
ねがいを求めるべき涅槃、さとりの境地というものもありません。

(なるほど。結論2「現実そのものが涅槃の境地!」)
(ちなみに涅槃=Nirvanaです!)