「何も話せない」人たちと話すいくつかのヒント
リハビリ室の課長がどうも浮かない顔をしているので「どうしました?」と聞きました。「職責者の会議が形式的すぎて、あれじゃまずい」とすっきりしない顔で話をつづけてくれました。「発言もないし、あったとしても空気を読んだうなずきだけ。本来はそれぞれに違う立場だし、違う経験をしているのだから、差があっていいはずだし、対話がない」といって、会議室を後にしていきました。
後日お会いすると、1冊の本を勧めてくれました。私は、人から本を勧められることが好きです。書評も便利ですが、実際に関わりのある方々から「これ」と勧められる1冊は、どんな本でも買ってしまいます。それは、自分が書棚で手にしないテーマで、学びが多いからです。
今回、勧めていただいたのは「対話」について。私の薬局でも「薬害についてどう思う?」と大きな質問をすると「どうって・・・」となってしまいます。「薬害イレッサの和解に賛成?反対?」とYES,NOでも、10人中4人くらいが手をあげて、一言発言できるくらいでしょうか。そういう私も、管理会議や理事会で発言をしない。発言ができない。「まずいなー」という感じをずっといました。
なぜ発言をしないのか?、対話ができないのか?
1.発言をしないことは被害者であり、加害者
発言をしない人。「彼らは被害者であると同時にじつは加害者なのである。自分の権利が侵害されているのに、それに対して声をあげることができない被害者であるとともに、その「弱さ」が転じて私語の荒れ狂う現状を容認してしまう加害者となっている。」
どうしてそうなってしまうかというと、たとえば、偏差値の低さが言葉をうばう事例。「学力の敗者である若者たちは、「だって、しかたないだろ」という麻酔薬と「努力すればどうにかなるよ」という麻酔薬を強引に飲まされたあげく、しだいに、しだいに、言葉を失ってゆくのだ。」
これは社会人になってからも同じで「自分の発言が重んじられない雰囲気を感じると、とたんに発言ができなくなる。本当は双方が必要としているのに、発言する側が先にしり込みしてしまう。」生い立ちは被害者ですが、社会人としては存在理由がないので加害者となります。
どうして、日本中がだまっているのか?
2.「和の精神」がもたらしてしまったもの
私は和を感じて、そこにすーっと入るのが得意です。祖母と暮らしていた影響でしょうか?それは、こんな感じです。「天気についての<対話>を遂行するのが目的なのではなく、「いいお日和ですねえ」という言葉を通じて人間的な触れ合いの場を開くことが目的なのだ。だから、それを受けて「そうですねえ。しかし、歳をとったせいじょうしょうか、風が染みましてね」と答えればいいのである。」
はっきりといえば「この国の人々は個人と個人が正面から向き合い真実を求めて執念深く互いの差異を確認しながら展開してゆく<対話>をひどく嫌い、表出された言葉の内実より言葉を投げ合う全体の雰囲気の中で、漠然とかつ微妙に互いの「人間性」を理解しあう「会話」を大層好むのである。」ということです。なぜなら、「彼らは言葉を信じていない。あたりまえである。彼らは小学校以来、自分の語ることが周りの者に尊重されてこなかった。自分の言葉によって全体の状況を変えることができるなど想像もつかない。自分の言葉には威力がなく、優等生の言葉には威力がある。この差別をずっと見つめてきたのである。しかも、この国で彼らに要求されるのは「和の精神」である。「和」とは、現状に不満を持つ者、現状に疑問を投げかける者、現状を変えてゆこうとする者にとっては最も重い足かせである。」
間違ってもソクラテスのように「反芻を受けることが、反芻をすることに比べて、少しも不愉快にはならないような、そういう人間なのです」なんてことはないのです。
3.対話の基本「自分の人生の実感や体験を消去しない」
よって、対話の基本でいちばん重要なことは「自分の人生の実感や体験を消去してではなく、むしろそれを引きずって語り、聞き、判断すること。」だろう。「<対話>とは個人と個人とが「生きた」言葉を投げ合うことであるから、そろぞれの個人は交換不可能である。何を語ったかのみならず、だれが語ったかが重要なファクターである。すなわち<対話>とは、ー科学的議論のようにー個人がみずからの人生を消去して語ることではなく、むしろ人生をまるごと背負って語ることなのである。」
・あくまで1対1の関係であること
・人間関係が対等であること
・相手の語る言葉の背後ではなく、語る言葉そのものを問題にすること
・相手の質問や疑問を禁じず、答えようと努力すること
・相手との対立を積極的に見つけていこうとすること
・相手と見解が同じか違うかという二分法を避け、相手との些細な「違い」を大切にし、それを「発展」させること
・社会通念や常識に納まることを避け、つねに新しい了解へと向かっていくこと
「他者」とは「私」の拡大解釈ではない。<対話>とは他者との対立から生まれるのであるから、対立を消去ないし回避するのではなく「大切にする」こと、ここにすべてのカギがある。だが、他者の存在が希薄な社会においては何をしていいのか分からない。そうなのだ、本当のカギは他者の重みをしっかりとらえることなのだ。他者は自分の拡大形態ではないこと、それは自分と異質な存在であることをしっかり認識すべきなのである。
私たちはいつから「何も話せなく」なってしまったのでしょう。
自らの人生の実感や体験から、対話をして作り出される世界はどんなものだろう。
これから)今日は薬事委員会。申請薬が多いので、早朝から診療部と調整をしながら、午後の会議に挑む。きちんと1つ1つの責任を果たしたい。会議をコントロールすることよりも、意義ある判断をすることに重点を置く。何事もいったり、きたりだ。
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